5/09/2007

「トゥモロー・ワールド」を嫁とみる

映画や小説に関してよくなされる、「メッセージがない」「何が言いたいのかよくわからない」という批評が嫌いだ。

なぜかと言えば…つたないなりに、ものを作ることを志していたころ、自分がそう言われてすごォくイヤだったことを思い出すから。
メッセージや言いたいことは、もちろんある。でも「これこれこういう意味なんです」って言葉で説明できてしまうものを、どうしてわざわざ作品にしてると思う?という反発や、「お前なんかに分かられてたまるか」という不遜さがその背景にはあって、それがたとえ他人の作品に対する評価でも、今でもつい反射的に「嫌い」って思ってしまうのだ。
なぜ「伝わらない」のか、という部分にはいろんな要因があるけれど、その多くは、伝え方・語り方の技術が稚拙だとか、そもそもの伝えたいことがあまりに独りよがりだったりとかの、作り手・語り手側が責任を負うべきところが大きいんじゃないかと思う。まあ、見る・読む人の力量にもよるんだと言ってしまえばそうもなるけど。
だから、「書く・つくる人」は常にそうした点を反省し、表現の仕方に工夫をこらし、より「伝わる」ことを目指して、物語を磨く努力をすべきだ。ピュアに過ぎる考えかもしれないけど、それが文化(フィクションにおける)の進歩の推進力だと思うし、そうした各人の持ち寄った多様性やその相互影響が、今ある文化を形作っているはずなんだから。
だから、こう思う。よい批評は、よい創作に匹敵するはずだ。「メッセージがない」「何が言いたいのかよくわからない」といった言い方は、創作者を厳しくも暖かい目で見守っている言辞、なんかではなく、ただの判断停止を逆ギレで表現してみました、というほどのものじゃないだろうか。少なくとも、批評のプロが言うことじゃない。つくってるほうが頑張ってんだから、それに応える工夫を見せてくれよ、っていう気持ちなのである、僕の「嫌い」に含まれているのは(何様だアンタ、というのはこのさい置いといてサ)。

なんだか具体性のない前置きが長くなりましたが、やっと本題。
タイトルの「トゥモロー・ワールド」は、すごくわかりやすい、ストレートなメッセージを持った映画だ。そのこと自体がすでに商業映画としては感動的、なのかどうかはわからない。ただ、それを表現するフォーマットとしてのSFが、こんなにも機能していることに驚き、もう率直に言って感動したんだよ俺。

子どもが生まれなくなって20年以上が過ぎた、荒廃した未来。世界中の大都市は軒並みその機能を消耗し、文化的といえる生活水準を保つ数少ない国家であるイギリスでは、外国人排斥の風潮が吹き荒れる。反政府勢力のテロがあるかと思えば、政府の自作自演くさいテロもある。そんな希望が根っこから絶えたような終末的な世界観のなかで、ストーリー自体はごくシンプルに進んでゆく。
というところでわかるように、とても暗ぁいお話です。主人公の行動も、それが最終的にこの世界にとってどんな救いになるのか、という点は全然明確でないし、だいたい、何で子どもが生まれないのか、そうした物語の根幹になる部分の説明もない。
じゃあなんで、これがSFとして素晴らしいと僕には思えるのか。それはつまり、その説明のない部分こそが、この映画のメッセージを伝える上で重要な要素になっているからだ。
森羅万象に科学的な解釈を施し、そのうえで現実とはまたちがった世界を成立させる、それは確かにSFの醍醐味の一つだ。サイエンティフィックなホラを楽しむ、ニーブンの「リングワールド」やイーガンの「ディアスポラ」といった新旧の諸名作は、その最たるものだろう。でもSFの魅力がそれだけではないのは、ディックやヴォネガットJr.やブラッドベリが証明している。そんな振れ幅の大きい、ちょっと計り知れないほどの深さを持つSFというジャンルの中では、「トゥモロー・ワールド」は決して大作と呼べるような作品ではないかもしれない。
再びの、じゃあなんで。それは「トゥモロー・ワールド」が、一見して荒唐無稽なお話だからに他ならない。新生児が生まれなくなったからといって、20年足らずで世界中の都市が同時的に没落していくとか、人類という種「のみ」に限った不妊症候群や、世界的なインフルエンザの流行による、世界的な若年者の死亡など、科学的な解釈の表明なしには、首をかしげてしまうような要素がふんだんにあるのだ。その「不思議」を象徴的に表す、この映画の肝となる場面とも言えるシーンがある。

移民キャンプでの激しい戦闘の中、赤ん坊を抱いた母親と主人公セオが、建物からの脱出をはかって、政府の兵士とテロリスト、戦闘に巻き込まれた難民たちとの間をかいくぐるように進んでゆく。赤ん坊の泣き声に気づき、状況にもかかわらず、手をさしのべずにはおれない難民たち。続く銃声。セオたちの前に政府の兵士が立ちふさがるが、赤ん坊を認めた先頭の一人がこう叫ぶ。「撃つな!」ゆっくりと階段を下りてゆくセオたち。銃声は、もう離れたところでしか聞こえない。驚きの表情の兵士たち。胸の前で十時を切る者もいる。かくして脱出を果たしたセオたちの背後で、建物に爆弾が打ち込まれ、破れた静寂とともに再びの銃声と爆破音が激しさを増してゆく…。

ここで、横で一緒に見ていた嫁が、ぽつりと言った。「それはないでしょ…」

自分の命をかけた戦闘中に、攻撃の手を緩める、そのことに対する違和感を表した一言だった。
だが、そう言ったあとで、彼女は黙りこくってしまった。たぶん、言ったあとに気づいたのだと思う。映画の中の彼らは、「奇跡」と「希望」を、同時に、リビングでDVDを見ている僕たちには想像のできない種類の感情を持って見ていたんだということに。明らかに、そこには神話性とも呼べる輝きがあった。大げさな表現かもしれないが、映画の中の彼らにとっては、まさにそうとしか呼べないものが、胸の前で十字を切らせてしまうなにかが存在していたのだ。

その瞬間、「一見して荒唐無稽」な、その実周到に用意された設定が結実している。「人類の不妊」に代表される数々の疑問について、この映画で深い言及がなされないのは、その世界でそれらが「わからない」ことになっているからだ。子どもが生まれない、これ以上の問題が人類にとってあり得るだろうか。その原因が「わからない」ことの、不安。その大きさ。だが、一人の生きて動く赤ん坊によって、そのすべてが反転するだろう。世界の再生が予感されたその瞬間に、人は目の前の(同じ人類である)敵を殺すことを考えられるだろうか? …………これはもう、SFにしかできない表現、と言わざるをえない!

いやいやむしろ、これってSFじゃなくてファンタジーなんじゃないの?SFである必然性なくね?僕はそうは思わない。なぜならこの映画は、前後と矛盾するようだが、現実を描こうともしているからだ。ナショナリズムの台頭めざましい昨今、外国人に対する感情は多くの人たちにおいて悪化してきていると思う。国外退去や強制送還、難民の受け入れ拒否などは世界中の国家・都市で行われているし、9.11以降の国家間の緊張についてはいうまでもないだろう。強制収容所やアウシュビッツは実際に存在したし、映画で描かれたのと同じような戦闘風景は、今日も間違いなくどこかの国のどこかの地域で繰り返し再生されている。
もちろんこうした「内戦」や「テロ」といった問題を、身近には感じられないこともあるだろう。拉致をはじめとした北朝鮮に関する諸問題や、最近特に目立つようになってきた韓国・中国との摩擦を抱えた日本においても、肌に感じる「危機感」がどれほどの温度を持っているかは、人によりけりだ。つまり、「当事者性」というものが、この映画においては非常に重要なファクターとして扱われている。「周到に用意された設定」といったのはまさにこの部分で、「トゥモロー・ワールド」では、問題の根源は「人類の不妊」に集約されているのだ。すべての人間が、当事者性を持たざるを得ないという設定。ここだけ取り出すととてもありきたりなもの(たとえば『世界の滅亡』とかありがちじゃん)に感じられるが、この映画の別のいいところは、ちゃんとシナリオ以外の部分でも頑張って、映画自体の説得力を高める努力をしてた、というところだ。

長回し/手持ちといった手法を多用し、高いレベルでの映像美であの世界の閉塞感を表現していたと思う。そこまで予算のかかった映画とも思えないけど、美術にもそうとうこだわってたんじゃないだろうか。あとエキストラとかちょい役も含め、役者陣の演技が良かった。「ジュリアン・ムーアの出てくるSF」と聞いた瞬間、アレのダメージを思い出して劇場に足を運ばなかった自分を反省してます。

とここまで書いてきて最初に戻ると、やっぱり「工夫」のある作品、隅々まで考えてぶつけられた作品は、それだけ面白い。久しぶりに、そういうことに思いを馳せた映画でありました。え、長い?そーねえ長いよねえ……ごめんなさいねえ…えすえふばんじゃーい…むにゃ…むにゃ……

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